TOP > 特別講演

業界展望

特別講演

  • 次へ
  • 前へ
  • 業界展望トップへ


2010年新年賀詞交歓会特別記念講演
生源寺 眞一(東京大学農学部長)先生 特別講演


生源寺 眞一先生

東京大学農学部長
生源寺 眞一先生

生源寺 眞一先生 プロフィール
1951年 愛知県生まれ
東京大学農学部卒業
農林省農事試験場研究員、農林水産省北海道農業試験場研究員、東京大学農学部助教授を経て、1996年に東京大学農学部教授(農業経済学専門)
2008年4月から農学生命科学研究科長・農学部長
過去、食料・農業・農村政策審議会委員、日本フードシステム学会会長などを務め、現在、日本学術会議委員、農村計画学会会長、国土審議会委員を兼務
著書:「農業再建」(岩波書店)、「新版よくわかる食と農のはなし」(家の光協会)




「食料問題の新局面と農業・農政のゆくえ」

はじめに

 世界の食料問題を語るのに、大きく3つのキーワードから話していこうと思っております。それは「フードセキュリティ(食料安全保障)」、「食料自給率の観点からの日本農業」、「現政権下での農政の仕組み」です。
 近年、小麦・とうもろこし・米・大豆等の国際価格が急騰しております。それぞれの穀物において、2006年1月と比較して3〜4倍になっております。その価格高騰に拍車をかけた新たな要因は以下の3つが挙げられるかと思います。「食料市場への投機的資金の流入」、「燃料用の農産物需要の拡大」、そして「小麦や米などの輸出禁止・輸出規制」です。
 また、問題は食料市場の中長期の見通しがあると思料致します。具体的には2点御座います。先ずは不安定要因が増大し、投機資金や輸出規制は今後とも市場の変動幅の拡大に作用すると予想されます。さらに燃料用需要には実需の押し上げだけでなく、政策変更などのアナウンスが思惑につながる面も考えられます。加えて異常気象の頻発も懸念材料の一つです。二つ目は需給の逼迫基調が見込まれる中長期のトレンドが挙げられます。途上国特に中国・インドといった人口大国の経済成長により、飼料穀物や油糧大豆などの食料需要が増加の一方で、供給面では農地面積はほぼ横ばいで、技術進歩による面積当たり収量の伸びも鈍化しています。
 将来の食料需給は単なる予測の問題では御座いません。私の考えを申し上げますと、最低限の食料は絶対的な必需品であり、安全性の見通しを立てておくことが合理的であります。また、途上国の所得水準の向上による飼料作物や油糧種子の消費増は、貧しい食生活から解放されるという意味で望ましいことですが、需要の増加が食料価格の高騰につながり、それが食料消費に対するブレーキとして作用するという、地球社会の大きなジレンマになります。

ふたつのフードセキュリティ
講演会の様子02

 通常は食料安全保障と訳されるフードセキュリティですが、食料安全保障とは、大規模な災害や国際紛争などの不測の事態への備えであり、どんなときにも人々のサバイバルに必要な食料が確保されている状態を指します。戦時下のイギリスでも「勝利のために耕そう」、「農業にはあなたが必要だ」というポスターが多く市内で貼られておりました。
 主として途上国の貧困層を念頭に、すべての人々に毎日必要な食料が確保された状態を指すフードセキュリティですが、この意味でのフードセキュリティの訳語には食料保障が適切かと存じます。そして問題は地球社会に食料が総量として不足しているわけではなく、根本は購買力の偏在にあると思います。現に世界の栄養不足人口は今や、10億2,000万人に達し、そのほとんどが開発途上国(サブ・サハラ・アフリカ、南アジア等)に偏っています。
 フードセキュリティをめぐる基本問題は幾つか御座います。安定感を欠きはじめた今日の日本社会にとって、一段と重要性を増している食料の安全保障で、人々の冷静な判断と落ち着いた行動を支える絶対的な必需品の供給保証であり、食料安全保証は社会の安寧のためのインフラで御座います。従いまして、所得格差の拡大と食料価格の上昇のもとで、日本社会にも食料保障としてのフードセキュリティに配慮しなければならない場面もあるかと存じます。
 次に世界の食と農の大きな構図の中で、二つのフードセキュリティの追及は相互に調和的であろうか、先進国の農業保護政策は、途上国の食料問題の改善にプラスであろうか、という問題が御座います。先進国の保護政策による農業生産の拡大は、途上国の食料保障の改善につながらないのみならず、むしろ悪化させるとの評価も御座います。対立するかに見える先進国の食料安全保障と途上国の食料保障の中で、真の問題は食料安全保障に必要なレベルを超えた過剰な農業保護政策と考えます。また、食料価格高騰のもとで、少なからぬ国が農産物の禁輸措置を行い、絶対的な必需品に関する自国民優先の行動を国際社会も容認致しました。但し、フードセキュリティの観点から食料の輸出規制が容認されている事態は、食料輸入国が最低限の食料生産力を確保するための手段を許容することと整合的でなければなりません。
 3つめと致しまして、重要性を増す食料保障力を増強するための国際協力が御座います。食料をめぐる援助には、食料そのものの援助、食料供給力の増強をもたらす援助、食料供給力の増強を支える人材づくりの援助の3つの次元が御座います。食料に関する途上国支援は、貧困問題の改善を通じて国際社会の安定に貢献し、それが先進国の食料安全保障対策の負担軽減にも寄与すると考えます。

日本農業の活路

 次に日本農業のこれからについて話をしたいと思います。先ず、食料自給率の推移ですが、ベースとなる穀物自給率、総合食料自給率を1960年から現在まで調べましたが、日本の食料自給率は長期傾向的に低下し続けております。また、特徴と致しまして、それぞれの項目における値の開きが年々大きくなってきており、乖離度も大きくなってきております。この二つの食料自給率の乖離は、まさに日本農業の特徴を反映しております。具体的に、3点程挙げさせて頂きます。先ずは、カロリーのないレタスにも経済的な価値があり、野菜は近年でも8割に近い自給率を維持しております。次に、同じ品目でも国産品を消費者が高く評価するケースが御座います。例えばオージービーフに対する和牛等です。最後に、飼料の自給率計算上の扱いの違いが御座います。熱量自給率を引き上げる中小家畜の国内生産が例として挙げられます。
 次に農業生産指数の推移と自給率を1960年から2004年まで調査致しました。品目別に見ていくと、畜産物、果実、野菜は増えているのに対し、米、麦類、豆類、いも類は自給率が下がってきております。
 日本農業は大きく分けて集約型農業と土地利用型農業が御座います。施設園芸や畜産に代表される集約型農業の分野では、増加する青果物や畜産物の国内需要に応えるとともに、他産業従事者と比べて遜色のない所得を生む農業経営への脱皮に成功しました。さらに法人化や雇用労働の導入も進展致しました。土地利用型農業の経営規模拡大は緩慢です。多くの水田農業地帯では、小規模な耕作を維持しながら農外の仕事を中心に生活する安定兼業農家が定着しました。昭和一桁世代の農業従事者のリタイヤで、水田地帯の兼業農業は急速に人手不足になりました。
 今後の活路について、私は4点考えます。先ずは、若い農業者を大切にすることです。第一線で活躍中の担い手を支えると同時に、卵やヒナの段階にある担い手候補を支援する「明日の担い手政策」の充実が重要です。法人経営や集落営農は若い農業者を育成する場としても機能致します。長い時間軸でみれば、所有農地の大小や農家の子弟であるなしにかかわらず、担い手支援策が農業を職業として選択する人々すべてに開かれていることが重要となります。
 2つ目は、経営の厚みを増す戦略です。高所得社会において、一定の農地面積の確保なしに職業としての土地利用型農業は成立しません。つまり、経営の厚みを増す戦略として、川下の食品産業(加工・流通・外食)や併行して流れる関連産業(観光・体験・交流)への多角化や、施設園芸・高級果樹生産などの集約的な農業と土地利用型農業を組み合わせることも効果的であると考えます。
 3つ目は、ふたつの品質と情報発信です。日本農業の強みは高品質の農産物を生み出す「ものづくり」のDNAです。これからの食品については、製品自体の品質に加えて、製造工程の品質のレベルが問われることになります。つまり製造工程の品質の象徴が環境保全型農業の実践となろうかと存じます。加えて優れた品質を消費者に伝える情報技術の巧拙も経営の成果を大きく左右するかと存じます。情報発信力を磨き上げていく農業の営みは、次代を背負う若者を引きつける点でも力を発揮すると思います。
 4つ目は、アジアの中の日本ということです。食文化に共通項の多い東アジアでは、購買力の上昇に伴って、得意とする食品が相互に行き来する食のネットワークの形成に現実味があります。経済成長とともに日本と他のアジアの国々のあいだでは、農業の競争力が次第に接近してまいりました。途上国段階のアジアの農業競争力を支えてきたのは安価な賃金であり、中国の1戸当たりの農地面積は日本の3分の1です。今後は、一面ではお互いに顧客同士であり、一面では世界からの食料調達をめぐるライバルでもある関係が深刻化しております。つまり、世界の食料需給の将来を左右する大きな要因が、アジアの食と農の動向かと存じます。

新政権下の日本の農政

 最後に新政権下の日本の農政についてお話をしたいと思います。水田農業をめぐる政策はこれまでいろいろと推移して参りましたが、日本において水田農業政策は揺れているのが現状で御座います。減反政策の抜本的な見直しと、現代の米経済にふさわしい政策体系の確立を目指した2002年の生産調整研究会が御座いますが、この研究会の報告を踏まえて、04年産米から新たな生産調整方式に移行しました。07年に米価下落への懸念が表面化し、同年秋から冬には自民党主導による生産調整政策の見直しが行われ、価格維持のために米の買い入れを実施しました。さまざまな助成措置が新たに設けられるとともに、市町村行政による生産調整推進、集団主義的な締め付け、未達成地域へのペナルティの示唆などの点で、生産調整政策は先祖返りになりました。結果、市場介入による米価維持は生産調整不参加者に利益を与え、生産調整参加へのインセンティブを削ぐ方向に作用し、集団主義的な締め付けを呼ぶことになりました。
 また、集団主義的な手法には、現場の取りまとめ役の心労、コミュニティに生じる亀裂、農政不信の増幅、閉塞感からくる担い手(候補)の水田農業離れなどの副作用が生じます。真にフェアで風通しのよい政策環境を作るとすれば、選択的な生産調整は有力なオプションとなります。生産調整の強化や米の政府買入れによる米価の維持は、米ビジネスのボリュームを確保する点で農協の利害と一致します。裏を返せば、生産調整をめぐる議論は、手数料や米収入に大きく依存し、委託販売方式のもとでリスクを負担しない農協経営のあり方に問題が御座います。
 担い手政策についても、大きく揺れております。2007年度には、担い手経営安定新法に基づく経営所得安定対策(品目横断的経営安定対策)が本格的にスタートしました。施策対象は、10ha以上の農業経営であり、あわせて経理の一元化された集落営農も対象になりました。しかし、民主党が2007年夏の参院選で勝利して以降、経営所得安定対策にも強い逆風が吹き始めました。担い手政策についても、07年秋から冬にかけて自民党主導の見直しとなり、市町村特認制度によって面積要件を満たさない農家も対象となることが可能になります。つまり現場の判断を重視する点で妥当な見直しで、改革の基本線から逸脱したとは言えません。
 では、今後どうするべきなのでしょうか。私は日本農業の再建に向けて、一刻も早くブレのない政策を打ち立てることが重要だと思います。ブレない政策を作りだすためには、過去のいきさつにこだわることなく、徹底的に議論することが大切です。また、10年後の農業・農村のビジョンを描き出し、明瞭な政策理念から個別の施策が演繹的に設計されることが大切であります。加えて、危機的な財政状況のもとで、農業政策・社会政策・地域振興政策の役割を峻別することも重要であります。
 また、経営判断の自由度を大切にすることも今後大事になると存じます。米についてみるならば、民主党農政は実質的に選択的な生産調整に移行し、戸別所得補償制度のもとで、市場価格のみを受け取ることを前提に、数量目標以上の米生産量を容認するとすれば、農業者の経営判断を尊重する点で新機軸となります。しかし、麦や大豆などに新たに生産目標を設定し、農家に遵守を求める発想には疑問が残ります。それには作物のローテーション、新規作物の導入、気象条件、借地の変動、販売先の状況など、作物の組み合わせの決定には多くの要素が関与しており、目標の設定、通知、遵守状態のチェックなど、市町村の行政実務も膨大なものになるからです。
 さらに、担い手づくりも依然として重要であると思います。民主党は専業・準専業層の農家や集落営農組織を中心に講じられてきた前政権下の政策を、小規模農家の切り捨てと批判しました。しかし現実には、高齢化の進む兼業農家の維持に戸別所得補償の効果は疑問が残ります。民主党も規模を拡大する農家の支援を否定せず、規模加算をマニフェストでも明言しております。前政権の政策のもとで、集落営農組織が各地に生まれるとともに、専業・準専業層に生産が移行してきたことも事実で御座います。特に大型機械が威力を発揮する麦と大豆の生産は、専業・準専業層の農家や営農組織が大半をカバーしております。やはり現場で苦労を重ねてきた農業者のためにも、これらの成果を維持することが大切であると思います。

上へ
  • 業界展望トップへ
  • 前へ
  • 次へ